助太刀稼業〈一〉 さらば故里よ 佐伯泰英
文政三年1820年 十月十二日
豊後毛利家の徒士並・神石嘉一郎23才。身に覚えのない罪を着せられ脱藩を余儀なくされる。大阪に向かう船には「そなたが頼りだ」と毛利家の三男・助八郎が待ち構えていた。家宝の刀を持ち出した若様と旅をする羽目になる。
金も宛てもない旅が始まる。大阪で、助八郎の持っている刀と、助八郎の口で、二天一流三宅道場で道場破りをすることになったが、嘉一郎は、七人衆と稽古した。嘉一郎は三宅道場に居候して門弟衆に指導を始めた。助八郎はいなくなった。佐伯藩の上役・下野枝陸が来る。下野枝は、元の役に戻すので自分を手伝えという。助八郎から刀を取り返すという。助八郎は京都へ行った。
下野枝と三十石船に乗った。途中、浪人三人が強盗と化した。老商人を助けた嘉一郎は、弁当を貰い、老人の船宿「たかせ川」の使用人の部屋で一夜を過ごす。老人・梅鴛は禁裏一刀流荒賀道場を紹介する。隠居は、助太刀稼業を紹介する。
大名・吉川家に金を貸す伊勢谷の主・重蔵と吉川家に掛け取りに行く。番頭・有馬兵衛と発ち合い勝ちを収めた。三百二十五両を受け取った。四十両を渡すという重蔵の言葉を断り、助太刀稼業の名と重蔵の三朱と数十文入った巾着を貰って、旅だった。
武者修行に四十両は邪魔だった。
瀬田あたりの伊賀一刀流山波結城道場で稽古した。
山城結城、妻・和乃。藍16才と小太郎10才の四人家族だった。
膳所藩の藩士の臨時師範をして一月、山波家そ実家と思い必ず帰ると旅立った。
二ヶ月後、大井川で足止めされていた。どのような剣術家を目指すのかまだ考えていた。
寸又峡に仙人のような武芸者がいると聞いて大井川を遡った。岩屋にいた。仙人は酒を飲んだ。十数日、嘉一郎は独り稽古した。仙人はただ見ていた。見られることで稽古は充実した。仙人が小枝で滝の水を嘉一郎に振りかけた。旅に出よ。と言われ旅に出た。
文政四年 1821年 晩春
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