2021年12月3日金曜日

大名絵師写楽

大名絵師写楽 野口卓 

 耕書堂蔦屋重三郎は、「祭りで踊り狂う男」という絵を見た。この絵師に役者の大首絵を描かせようと喜三二に紹介を頼んだ。喜三二は描いた人が誰か判れば紹介しようと言った。
 一年が経過し、重三郎は、結果を持って喜三二に当たる。徳島藩蜂須賀家十代藩主・重喜。久保田新田藩二万石佐竹義道の四男。蜂須賀家に養子に行き、早急に改革を行い徹底した藩政の立て直しを図り、家臣団の反発で幕府に隠居を命じられた。国許にいる。兄の息子・甥は大名絵師曙山だった。現在五十六歳

 出羽国久保田藩佐竹家の江戸留守居役筆頭・平沢常富/朋誠堂喜三二。
 徳島藩江戸留守居役・菊池貞兼。部下、瀬波九郎。
 三十三軒堀一丁目 藍玉問屋四三屋芳之助。
 影武者として藩お抱え能役者・斉藤十郎兵衛

 大谷候が役者絵を描き贈答用の摺り物として配った後は市販してもかまわないという許可が出た。豪華な錦絵を摺、贈答用とする。紙や絵の具の質を落とし、東洲斎写楽の落款、極印、板元印を加え市販用とすることにした。

 大谷候が江戸へ出てきた。都伝内の口上絵を描いた。本人をよそ目で見、着物を着た他人を見ながら伝内の絵を描いた。蜂須賀重喜は、五月五日都座を観て、六日から八日で十一枚。九日に桐座を観て十、十一で七枚。十二日河原崎座を観て十三から十五で十枚の絵を描きあげた。何も注文を付けず、書きたい物を思う存分楽しんで書いた二十八枚だった。重喜は上機嫌で帰って行った。

 盆興行にも、大谷候は江戸へ来た。重三郎は立ち姿がいいとか紙の大きさにも注文が付いた。重喜候は三十七枚を描きあげた。疲れたと言い、集中力が欠け、後になるほど出来が悪い。重三郎にも判っていた。本人の書きたいものでは無かったのだ。
 写楽が誰か同心も探っていた。四三屋に行き着いた時には、候は出発していた。どこかの隠居。

 顔見せ興行には来なかった。重三郎は若手に写楽の真似をさせ写楽の名前で絵を出すが重三郎の後悔だけが残った。
 二年後、候は耕書堂を訪れた。写楽は私が作り出した絵師ですので、命を張って守り抜くと言う。

 

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