長兵衞天眼帳② ぼたん雪 山本一力
蒼い月代 室町の大店米問屋の三男・岡三郎が、小網町の扇屋・吉野家の一人娘に惚れ、持参金付きで養子に入った。吉野家は、一家総掛かりで、岡三郎を虚仮にすることをたくらんでいた。持参金目当てだった。一緒に住むようになり廻りの岡三郎にたいする気持ちが変わってきていた。
長兵衛は、四五六が作った鼈甲の眼鏡を渡す時、福徳神社で、宮司に吉野家に幸を運んだのは野島屋の守護神様だ。野島屋から迎え入れた婿殿を大事にするよう言わしめる。
よりより 村田屋の跡取り・敬次郎は、二年前の地震の前に長崎へ行った。二年の長崎遊学を経て江戸に帰った。江戸に帰った政三郎は、何かにつけ長崎では、オランダではだった。長兵衛は、敬次郎を研ぎ常兄弟に半年預けることにした。
研ぎ常近くのつきかげで顔合わせをした。敬次郎は、長崎で通っていた店がここの女将の叔母の店だと知った。長崎から帰る前日、女将は敬次郎に唐土から伝わったよりよりという菓子を作ってくれた。敬次郎は、何故女将がお菓子を作ったのか分らなかった。
二十日間ただただ見ているだけだった。自分の仕事場をあてがわれた日、研ぎ常は、料理屋の小火で使い物にならなくなった包丁類の研ぎを頼まれる。店に行き、常治は取り急ぎの三種・十二本の包丁を粗研ぎから始めた。敬次郎は、板長を筆頭に板前たちが、安堵の色を顔に浮かべたことが分った。
敬次郎は常治とのはなしの中で、疑問の答えがわかった。唐土から伝わった物が、土地の自前の菓子として大事にしている。異国の物に寄りかからず自前のものに育てることに汗を流せと女将は教えてくれたのだろう。
秘伝 鰻屋・初傳の傳助52才が鰻場で船から落ちた。傳助は、三年前から息子・太一郎に鰻割きを教え始めた。傳助は太一郎に譲ることを決めた。店を屋台骨から改築することにした。村田屋の眼鏡のことを聞き、村田屋で眼鏡を作ることにした。
薬問屋柏屋の光右衛門62才は、柏屋秘伝の三種薬・乙丸・丙丸・丁丸の調合をしていた。村田屋で目の検査をする。長兵衞は、光右衛門の目が悪くなりすぎ眼鏡を作れないと言う。光右衛門に、こんな目で調合していて何かあったらどうするのだと言う。光右衛門は、代替わりを決心した。はらを決めれば軽くなった。
上は来ず 十年前、老舗飴屋の吉右衛門の提案で、室町暖簾組合の冬の間の夜回りを火消し人足に頼むことにした。請負は鳶宿・豊島亭の安次郎、百両だった。長兵衛も一緒に掛け合った。
長兵衛は、贔屓の芸者・純弥が、金持ちではなくても遊べる茶屋を作る決心をした時、飴屋本舗の吉右衛門と一緒に奉加帳を作り、広目屋の段取りもした。でき上がって分った。あの建物の持ち主は、安次郎だった。上は来ず、中は朝来て昼帰る、下は夜来て朝帰る、下下はそのまま居続ける。
湯豆腐牡丹雪 安政三年(1856年)十二月六日 長兵衛は新蔵に誘われ王子村飛鳥山の鷹ノ湯にいた。二日目湯豆腐を食べ、按摩を呼ぶ。豆腐のおいしさを褒め、村田屋の眼鏡を話をする。按摩が聞いていた。夜更けに自身番に連れて行かれる。新蔵が十手を見せる。
豆腐屋の豆助が、事情を話す。室町の村田屋の手代頭・与四郎と名乗る者が、八百善の板長に豆助の豆腐を仕入れさせるため天眼鏡を貢げと言われ、端切れに九両二分を包んで渡したと言う。与四郎は、村田屋の手代の証しだと言って天眼鏡を置いていた。長兵衛は、村田屋の天眼鏡が騙りの種にされたとあっては放っては置けない。豆助を騙りに嵌めた一味が来たと勘違いされたのだった。お金を包んだ端切れと同じものを預かり帰る。
与四郎が置いて行った天眼鏡に刻まれた番号から与四郎の住まいが分った。差配に、端切れを見せて与四郎のことを尋ねると、与四郎は、去年の地震の時、隣の怪我人を助けに行き、落ちてきた屋根の下敷きになって亡くなっていた。江戸の外れで作る豆腐を名の通った料理屋に卸す仕事が始められそうだと意気込んでいた矢先だった。同じ端切れに包んだ九両二分を出してくる。
十二月八日、与四郎のことを話に行く。豆助は与四郎に預けた金で天眼鏡を作って欲しいと頼む。
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