2018年10月5日金曜日

おれは一万石⑥ 一揆の声

おれは一万石⑥ 一揆の声 千野隆司
 天明七年 1787年
 今年も冷夏で凶作だった。六割の出来だった。高岡藩の五公五民になった。少し取れ高の高かった五村に百五十俵の貸し米を求めた。貸し米を中止して欲しかった。嘆願書には四公六民に戻して欲しいとも書いた。五村を合わせて総右衛門が嘆願書を持って代官所・大河原の所へ行った。嘆願書を受け取り高岡陣屋に取り次いで欲しかった。受け取ってもらえないことで百姓が門前で石を投げた。総右衛門は牢に入れられ、嘆願書は陣屋へ送られた。中老の河島は強訴と言えない思い、江戸に伝えるようにと考えたが、国家老の児島は江戸に連絡しなかった。百姓たちは一揆の用意をする。江戸から来た相馬屋楽太郎と連れてきた三人が百姓たちを煽っていた。
 河島は児島が江戸に連絡をしていないことを知った。百姓のなだめ役に児島は須賀を選んだ。
 事情を知った世子・正紀は総右衛門を牢から出し、食事も同じものを出すように指示する。
 正紀は相馬屋を調べ、風邪と称し部屋に閉じこもり、実は高岡村に走る。
 百姓が一揆で村にいない間に楽太郎たちは村の蔵から米や麦を奪う。娘や子供も連れ江戸へ行く。百姓を脅して協力させる。境川の船に積み込んでいる所に正紀は行き着くが、子供を盾にされ百石船は外海に逃げた。正紀は須賀と楽太郎の繋がりを知っていた。高岡で須賀の動きを見ることにした。正紀は百五十俵の貸し米を取りやめにし、名主総右衛門を重追放にする。総右衛門の次男が取手にいる。総右衛門と宇左衛門を含め相談した。正紀の印籠の家紋を見、相談したのが誰か分かったようだ。一揆は中止された。
 須賀が動くのを待ち、船の場所を探し、娘たちと米を取り返した。須賀は自死した。児島は江戸で連絡を怠ったため叱責され三月の蟄居になった。幕閣からは処罰が甘いと言われた。死罪にすることが藩や領民のためになるとは思えなかった。
 府中藩でも一揆が起った。藩は討伐隊を出した。武力で解決を見たが、百姓たちは納得しておらず、火種は各地に残っているらしい。

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