2016年2月22日月曜日

剣客大名 柳生俊平

剣客大名  柳生俊平 将軍の影目付 麻倉一矢
 享保十五年 1730年 九月朔日
 一万石柳生藩主養嗣子柳生俊平32は始めて登城する。江戸城菊の間で伊予小松藩主一柳頼邦と筑後三池藩一万石藩主立花貫長と懇意になる。
柳生俊平は桑名藩久松松平の十一男で、父親が越後高田に移封、九年前柳生に養子に入る。豊後臼杵藩主稲葉恒通の娘・阿久里と妻帯していたが、柳生に養嗣子となることになり離縁させられた。
 俊平による将軍家剣術指南の初稽古の後、吉宗より影目付の立場で真相を見極めて貰いたいと言われる。大岡越前守忠相を紹介される。柳河藩の大名火消しと町火消しの争いを調べることになった。
 町火消しと大名火消しが喧嘩し、大名火消しが屋根から落ち死亡した。町火消しが島流しになっていた。本当は大名火消し・黒木宅馬が大名火消し・久木与七郎を突き落としていた。久木は柳河藩主立花貞俶の側近で藩主の弟・茂之一派の企みを内定していた。茂之は柳河藩を乗っ取るために着実に事を進めていた。俊平は命を狙われた時に使われた短筒を証拠に抜け荷を糾弾することにして大目付・大場忠耀と柳河藩に乗り込む。
 貞俶は三月の謹慎、茂之は切腹、となった。
 小野派一刀流・浅見道場の伊茶が柳生道場へ来た。伊茶は伊予小松藩主一柳頼邦の妹だった。浅見道場の門弟が俊平を襲い、伊茶が俊平の助太刀をしたため伊茶は浅見道場へ通えなくなり柳生道場へ来ている。俊平は話し合いに浅見道場へ行くが練習試合になり、集まっていた一刀流を悉く倒し、浅見平九郎も倒す。
 

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