跳ぶ男 青山文平
藤戸藩の二十俵二人扶持の道具役・屋島五郎の長男として生まれた剛だったが、六才で母を亡くし、十才で後妻に男の子が生まれ、父の跡継ぎでは無くなった。
藤戸藩の道具役は能をするものだった。剛は跡継ぎでは無くなり、父に教えられなくなったが、同じ道具役・岩船光昭の長男・保に教わった。保は英才の誉高い剛より三才年上の少年だった。誰にもみられない、野墓の河原にある石舞台が稽古場だった。
お城勤めをしていた保は十七才で切腹した。剛は一人で稽古した。
十五才の時、十六才で亡くなった藩主の身代わりになることになった。十六才では急養子が認められなかったから。もともと貧乏な藤戸藩は、能で大名との付き合いを深め、お手伝い普請などから逃れてきていた。能が出来る者が良かったのだった。目付・鵜飼又四郎は身体の弱い藩主の身代わりに保を考えていた。保が亡くなり剛が身代わりの身代わりになった。
剛は江戸で能での外交をする。江戸城奥能の総本山・志賀藩の支藩の三輪藩の望月出雲守の目に留まることを目標にする。豊後岡藩修理太夫の誘いを受ける。修理太夫の実家・彦根井伊家から養子にでている兄弟の藩を巡る。酒井家とも繋がり、十二月二十三日に出雲守に招かれる。奥御手廻り御能の皆様は「関わりにおいて密、交わりにおいて疎」なのだそうだ。客席は誰もいない、夜に潜む虫のように見ている。
剛は家老・八右衛門と又四郎に決意を言う。二月の拝謁の日、御簾の向こうに御当代様がいらっしゃらない日、廊下で転び、粗相の責めを負って自裁する。先代の息女の六才の男子を養子にする。急養子を認めてもらう。十七才になるまでお手伝い普請を免除してもらうという条件を出す。浮いた資金で人を育てて欲しい。自裁が当代に届くか、剛の自裁が当代様の負い目になるか、ということでは、剛が能で繋いできた関わりにおいて密が役に立つと思う。二人は今や藩主は剛だと言うが、二人の姿が消え、見知らぬ者たちの勝手にされ犬死にするのはまっぴらだ。剛は、二月十五日の月次御礼の日、御簾の向こうの空の席に別れの挨拶をし、退く廊下で美しく転んだ。
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