渋沢瑛一の東京事件簿2 殺意の黄金比 六道慧
昭和三十七年 1962年 九月
三浦健介 中小企業特別支援課課長 通産省の役人だった。通産省の中小企業を大会社の傘下に組み入れることに賛成出来ず、中小企業を助けるために曙信金に来ていた。
今月のノルマはワースト10の会社の改善だった。
中村研磨工場は近くの町工場に営業に行く。日本開発銀行の融資を断わるようにする。日本開発銀行→通産省→住田重工→Z連合会→明和会 住田重工が中小企業を傘下に組み入れるための組織だという。
バネ会社早見スプリングには、応急処置としてのロングタイプのバネを規格品として作る→正確な寸法のバネを作る。規格品の見本帳を作る。規格品の広告を近所に配る。アドバイスする。
新しい診療所を知られるようにするには近所で領収書をもらう時、水島診療所と書いてもらい新しく出来たことを言うようにアドバイス。
国光刃物工芸所は技術者や科学者に匿名で奨学金を出している作工会から奨学金五百万円がでることになった。
向島の牛嶋神社の祭りの曙信金の出し物は、瑛一が考えたファッションショー。午後はのど自慢大会。ファッションショーは洋服問屋も自社製品を売る。瑛一は鈴虫とバネの玩具を作った。
瑛一の父親が盲腸で入院した東都大学病院の院長の娘2才が誘拐された。病院に幽霊が出るという噂があり、屋上から飛び降り自殺をした看護士もいた。女医も看護士にも院長に暴行されたようだ。瑛一の考えた犯人は何人もいた。考えたのは女医か、院長の妻・看護士士長・誘拐された娘の母。だと思われる。手を貸したのは家政婦とその許嫁(たぶん、自殺した看護婦の恋人だった男)、協力したのは看護士たち。週刊誌に院長の悪業を知らせる。お金を取る気はない。院長の悪業が公になり、病院からいなくなればいいのだろう。警察には知らせない。
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