宗元寺隼人密命帖(三 ) 名花散る 荒崎一海
文政六年 1823年 三月
俎橋のたもとで屋台の蕎麦屋の親父が殺された。紀州屋の寮で主・善右衛門と芸者・糸次が死んでいた。駿河台の武家屋敷で主・作事奉行間宮筑前守が死んでいた。深川大島町の船宿の桟橋の屋根船の中で紙屋大森屋の娘・きよ15才と手代・定吉21才が定吉がきよの肩を抱いて死んでいるのが見付かった。相対死とみられた。浅草福井町の二階建て長屋で芸者・小菊・杉岡栞が殺された。
宗元寺隼人は小菊の死は自分が通ったためだと思った。襲ってくる伊賀の忍と雇われ刺客を退けてきた。鵜飼小四郎も甲賀の忍・小菊を簡単に殺しているため、伊賀の仕業と考えていた。通夜に誘き出し帰り道を狙うつもりだと考えたが、待ち伏せは無かった。夜、甲賀忍は伊賀の女忍を二人殺した。
隼人は伊賀との関わりをしっている北町奉行所定町回り同心・秋山平内37 才と文蔵59才と晋吉31才の親子に小菊殺しと二人の芸者が殺された探索は無駄だと告げた。奉行・榊原主計守忠之58才にも告げる。小菊は押込みによる殺し、芸者二件も賊による殺しとしてかたづけられた。他の事件の相談も受ける。隼人は刺客に襲われる。
伊賀の百地五郎兵衛が現れ、小菊に手を手にかけたのは伊賀ではないと言う。伊賀と甲賀を争わせ漁夫の利をえんとする者がいるという情報をもたらす。
間宮筑前守は紀州屋を使って、木曽屋と沼津水野家、浜松水野家、老中と寺社奉行の繋がりを木曽屋の贔屓だった糸次を使って調べていた。調べられて困る誰かが命じ、間宮筑前守と紀州屋と糸次が同じ日に殺された。
間宮殺しに使われた屋根船は俎橋で夜を過ごした。俎橋のたもとの屋台の蕎麦屋に見られるのを嫌い殺した。小菊殺しは紀州屋殺しから目を反らすため、上手くゆけば伊賀と甲賀の共倒れ狙い。犯人は風麿一族だった。紀州屋殺しの方か、小菊殺しの方か、屋根船で帰った時に桟橋に付けていた屋根船の中の二人を殺していた。朝、帰ってきた屋根船がつけられない。変わった動きをする屋根船のために伊賀の網にかかった。風麿の船宿が大島町にアル子とが分かった。風麿の塒を突き止めて殺し始めた。
風麿は江戸を出る用意を始めた。六郷で待つ。風麿與雲斎、甲賀と伊賀とに手を組まれるとはしくじったと言い死んでいった。
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