大番頭旗本七千石西条山城守貞頼の娘・美雪は征夷大将軍正二位右大臣徳川家綱の命を受け、刀、朱印状、目録等を大和大神神社に持って来た。
大神神社は十五年前、家綱の命で幕府からの寄付で大神神社の拝殿を造営し、家綱23才、柳生飛騨守宗冬51才、西条山城守は完成を見に極秘で大和を訪れていた。
美雪の亡き母・雪代の実家は大和の曾雅家だった。大和の蘇我本宗家の子孫と思われている曾雅家だった。
曾雅家を般若の面を付けた曲者が襲う。古代王朝より掠め取った六千万両相当の財宝を、我らの手に戻すか、滅びるかと言う。たまたま離れに滞在した宗次が護る。宗次は百了禅師を訪ねて大和に来ていた。百了禅師は宗次の養父・梁伊対馬守隆房の兄だった。が、当主・和右衛門が拉致されていた。御祖母様・多鶴は娘・小梅と孫・美雪を連れ、汝 薫るが如しの石碑の前で、和右衛門は小梅が四才の時に亡くなっていることを告げる。和右衛門の病が重くなった頃、「うりふたつ殿」を連れてきて亡くなってから病が治ったように見せかけていた。
古代蘇我本宗家は大王の許しを得た上で、『臣姓近衛』軍の長官・飛鳥氏に曾雅の称号を授与された。という古文書が見付かった。『六千万両面観世音菩薩』(むちよろずりょうめんかんぜおんぼさつ)立像を曾雅に下された。とあった。
般若の曲者も聞いていた、和右衛門を返した。
何者か分からないまま般若の黒面の頭は宗次に倒された。白面の般若たちは舌を噛んでみんな自死した。
延宝二年、今から六年前、飛鳥氏を長官とする臣姓近衛という組織が古代蘇我本宗家の指揮下に存在し、大和柳生は最右翼戦闘集団だと位置付けられ、長官飛鳥氏(曾雅)に永世にわたり忠誠を誓うべしと勅命ば申し渡された古文書が見付かった。宗春は病で亡くなったことにして曾雅氏の元に来ていた。宗春は美雪を嫁に欲しいと多鶴に言う。美雪が宗次を好いている事を知っている多鶴は宗春が亡くなったことになっていることで断わるが、それでも頼む宗春に美雪に好いている者がいることを言ってしまう。
多鶴は大急ぎで宗次に美雪を託し祭念寺で落ち合うように手筈をして江戸に帰らせることにした。祭念寺で宗次と宗春は対決する。宗次は宗春を知らない。宗春は宗次憎しだったが、首に峰打ちを受倒れた。宗次は美雪と会い江戸へ旅立つ
残り雪 華こぶし 寛文四年 1664年 大和大神神社
家綱と西条貞頼と柳生宗冬のお忍び旅
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